大学を卒業して社会人になってすぐの頃(今から20数年前)、あるFMの番組を聞いたことが、マチュピチュひいてはフォルクローレを志す決定的きっかけとなった。「志摩麗子の世界音楽紀行」という番組(当時はエアチエックといってカセットテープに録音、たまに今でも懐かしく聞いています)で、志摩さんがマチュピチュを目指したのだが、大雨で高原列車が途中で引き返すことになって、結局マチュピチュへは行けなかったと語っていた。そうかマチュピチュは秘境で行くのは相当難しいんだ、いつか行ってみたいなあと思ったのだった。また、番組のバックに「コンドルは飛んで行く」がいかにも詩情たっぷりと流れコンドルを吹けたらいいなあと思ったのである。
それから、幾年月が流れ、ついに、、、、、、。
麓のアグアスカリエンテスから、画像中央の白いペルー版イロハ坂をバスで25分程あがる。 バスはひっきりなしに出る。 このひっきりなしの観光客、これが少しだけいやな予兆(後述しますが)があったのだが、いまはそれよりもこれからマチュピチュだとドキドキ胸が高まる。 |
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そのバスにはチャランゴとサンポーニャを抱えた一人の「辻楽士」が乗り込んできた。 コンドル、だみ声の花祭りをひとしきり歌い、帽子をまわす(チップですね) 運転士もさも当然と彼を受け入れ、自分達の大切な伝統音楽を外国人観光客に伝えているのだという認識が根底に流れているようだ。 |
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バスを降りて、まるで奥多摩のような景観の植物相と整備された急な山道を暫し登る。 異様に疲れるのは高山病をひずっているせいか。(標高2,280m) するとパッと開けた視界の先には「ワイナピチュ」(若い峰) 因みにマチュピチュとは老いた峰を意味する。 |
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更に暫く行くとワイナピチュとその下に広がる空中都市が目に一杯に飛び込んで来た。 都市(街)は左右断崖絶壁で、頂上部分をすっぽり削りとって、そこに作ったかのようだ。 |
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左手には「アンデネス」(段々畑)が広がる | |
右手にも「アンデネス」(段々畑)が広がる 急斜面で平面の耕地はほんのわずかだ 見下ろすと谷底へ転げ落ちてしまいそう。 |
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太陽の門をくぐり街の中へと入っていく。 | |
込み入った石の街を行く。 | |
屋根にワラを葺き、復元された住居 ワラはすぐに朽ち果て、それ以外はそっくりそのまま残っている |
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内部に入る。 インカの人が立ったその場に私もこうしている。 こちらは石の構造体。 後述するプーノのケチュア族の家は日干し煉瓦 いまも昔も変らない |
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広場もある。 世界遺産登録前の70年代はここでサッカーもし、テントを張りキャンプ自由だったという。 今は、看板、ゴミ一つ無し |
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俄かに空がかき曇り、雨が降ってきた 雨に煙るマチュピチュ さようなら |
マチュピチュトレッキッングの後半は、高山病のなごりゆえか、とても疲れた。疲れゆえか気持ちも落ち込んでいた。
どこでケーナを吹くか、吹けば吹いたでいつもどおりのあまり良くない具合。そんなことで気持ちの大部分を使う必要はなかったのだ。
もう一つは観光客の多さだ(自分もその一人なのだが)。大げさに言えば込み合った海水浴場。人の多さに疲れてしまっていた。クスコからマチュピチュまでインカ道をキャンプして歩くバックパックが3泊4日だという。こうでもすれば、「天空の城を求める旅」とでもなりえよう。ビーパルのシエルパ斎藤さんがやったようなことは、今の私には出来ない。
ただ、マチュピチュはガイドのカルメンさんに申し上げたように、私にとって「Recuerdo
de la Vida」(生涯の思い出)となった。きっと、年が増すたびにそう思い続け、いつしか「幻」となるだろう。
(この稿平成17年8月20日記す)